第四回 「自然とのふれあい・土と楽しむ」
小川 高平
ふるさと農園 代表
本当の話、「土と楽しむ」ということは、楽な事ばかりではありません。
むしろ、辛いことがとっても多いのです。
おいしい野菜を有機栽培で作るには、土作りから始めます。一うねニうねと深くおこして、たっぷりの堆肥を鋤き込むのです。土を生き生きさせるためです。「土が生きている」ってわかりますか。土が黒々となりふかふかしてくると、元気な土壌菌が一握り兆単位に増えてくるそうです。それには何年か掛かるので、春のはじめ土を握り締め感触を確かめると去年より何となくよくなったと感じ、「おっ、土が生きてきた」と頷き、やる気が体中に漲ってくるのです。
早春、冷たい西風が吹く日、そんな日でも土をおこし、種を蒔いたりします。良い野菜を作るには適期をはずせません。鼻水が出てくると途中で切り上げてしまいますが。数年前、無理がたたって肺炎になったからです。
春の陽は柔らかく、湿り気が多いので、畑の空気はまことに香り立っています。
夏の日中は陽射しが強いので( これで作物や雑草が旺盛に育つのです)、早朝に起きて一時間ほど雑草取りをします。そのあとの朝ご飯がおいしいこと。
秋は収穫期と言いますが、野菜はほぼ年中作付けと収穫を繰り返します。でも収穫の秋はほんとにすがすがしい。一日中畑にいても飽きることがないですね。
ところで、土を「汚い」と言う人、そう思っている人がとっても多いのが現実です。土壌菌を病原菌と勘違いし、子どもたちに土から遠ざけるお母さんがいらっしゃる。確かに汚く危険な土もあるにはあります。そんな土では有機栽培によるお奨めの野菜は出来ません。健康な土にすることが百姓の第一歩です。土を危険なものにしたのは現代の人間社会でしょう。本来自然にある土は太陽の力で生かされているのです。太陽のエネルギーが海や大地を温め雨や雪を降らせ山野や畑を潤します。昔の川は清く、人の住む町でも土は健康で、井戸水や湧き水をそのまま飲んで暮らしていました。子どもたちは土に親しみ、泥水だらけになっても、親は放っていました。
もうそんなふうには戻らないのでしょうか。そんな事はありません。人間さえその気になれば長い時間はかからないでしょう。きっと健康な土に戻す事が出来るでしょう。何故なら、太陽は昔と同じように燦然と輝いているではありませんか。
わたしは伊豆の山に住んで野菜を作り趣味と実益を兼ねた暮らしをしています。実益の中身はと言うと、毎週土曜日に仲間と一緒に育てた野菜を産直市場に出荷し、その売上で借地代や種苗代、堆肥などの有機栽培に必要な資材を購入します。あとは仲間達と年二回ぐらい一杯やって感謝祭をやる。太陽と土と健康に感謝するのです。
太陽は父、地球は母。すべての生き物はこの父母のもとで生かされています。違いますか。「絶対」と言えるのはこれだけじゃないでしょうか。「死は絶対にくる」そうかな、生れて来るから死があるけれど、自分や人間の事だけでなく、地球で生きているすべての生きものをトータルで見ましょう。生物誕生の遠い昔から未来に向かって、地球に生物が生存できる環境がある限り、絶え間なく無数の多様な生き死にが延々と続く。だから生物全体はいき続けていると言えるのではないでしょうか。
あらゆる生物は自らの子孫繁栄を本能とし、そのためにきびしい生存競争を繰り広げ、また一方で、調和・共存・協力などが行われています。
生存競争ばかりでなく、環境への適応・進化についても気の遠くなるような長い時間を掛けて今に至っています。
人間は「英知とあくことろのない欲望」を持つ唯一と言ってもいい生き物です。「欲望と言う名の電車」という映画がありました。その意味で果てしなき欲望の行き着いたところが現代の人間文明社会である事に異論はないでしょう。英知や欲望は身に備わった人間の人間らしさですから、大きな視野で観ると、地球上に共生するすべての生きもののことを我がこととして考えて行く、そのための大きな英知がいま人類に等しく求められているのではありませんか。
そうしなければ人間の未来はなく、また、すべての生物の未来を奪うことになりかねません。じっくりと気長にやることです。何時かはきっと希望の叶う日が来る、それを信じましょう。
地球汚染の始まった産業革命から、未だ二百五十年しか経っていないのですから。
野菜作りが「趣味」と言えるのは、創造の喜びがあるからです。準備をして種をまき、芽を出した野菜を育てる、それが苦心や苦労の賜物( 太陽からの賜りもの) であるだけに、歓びはひとしおです。お産と二日酔いの辛さは直ぐに忘れると言われますが、野菜作りも同じです。また今年も熱きおもいで土作りに励むことでしょう。知らず知らずに体が健康になってくるようです。